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明智光秀。明智藪~胴塚~首塚~本能寺(跡)。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

諸説あるが

京に残る史跡を元に

明智光秀の首を追ってみた。

「明智光秀」は

「本能寺の変」のあと

「山崎の合戦」で秀吉軍に敗れ

近臣十数名とともに暗夜に乗じて

「坂本城」をめざしたが山科の小栗栖で

「信長」の近臣「小栗栖館」の武士集団飯田一党の

襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。

その場所が今でも「明智藪」として伝わっている。

【明智藪】

地下鉄「醍醐駅」から

南西へ25分ほど歩くと

集落の外れに「明智藪」がある。

途中「山科川」の堤防道を歩くと

飛び交う燕の姿に夏の気配を感じた。

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「山科川」を渡り

小栗栖街道から

急峻な坂道を上ると

「本経寺」の前から

狭い道に分岐する。

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狭い道を進むと

民家の庭で行き止まりとなる。

庭か道か境界が不明確で躊躇するが

庭先を通り抜けると藪の入口に

「明智藪」の石碑がある。

石碑横には

「天正十年六月十三日光秀横死」と記され

「明智光秀」終焉の地を表している。

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石碑からさらに奥に進むと

「本経寺」裏の擁壁沿いの小道に出る。

「本経寺」には「明智光秀供養塔」があり

このあたりは寺領となっているそうだ。

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小道を進むと

竹藪に「明智藪」を示す標識がある。

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竹藪には

明確な場所は

特定されていなかったが

この辺りの藪だったのだろう。

天正十年六月十三日

襲撃をうけ最期と悟った「光秀」は

家臣「溝尾茂朝」に介錯させ

首を守護を表す「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」に

包んで「知恩院」に届けてくれと言い残したという。

竹の軋む音にもビクリとする

鬱蒼とした竹藪だ。

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明智藪(あけちやぶ)
近江坂本城主、明智光秀は一五八二年(天正十年)六月二日早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。
この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
平成三年二月吉日

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【光秀光秀胴塚】

「首」が切り落とされた「胴」は

「明智藪」近くに埋葬されたという。

現在は「明智藪」から

小栗栖街道を1.5km北に進むと

農園のコイン精米機脇に

「明智光秀胴塚」がある。

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石碑には

「明智光秀之塚」と記され

裏面には昭和四五年建とある。

「胴塚」は小栗栖に昔から存在していた。

長い年月の末に石碑は失われたが

昭和三九年に石塔が建てられた。

その後

周囲の開発に伴い

「胴塚」は現在地に移され

現在の石碑に改められたそうだ。

「光秀」に限らず

「首塚」は多々存在するが

「胴塚」は珍しいと思った。

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明智光秀胴塚(あけちみつひでどうづか)
 天正十年(一五八二)六月二日,明智光秀は,本能寺で織田信長を討ち取った(本能寺の変)。その後,中国地方から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉らと十三日に山崎の合戦で敗れた。光秀は近江坂本に戻ろうとしたが,小栗栖で襲撃され,明智藪で自刃したという。その際,首は介錯をした溝尾茂朝(庄兵衛)によって隠されたというが,持ち去られたともいい,首を埋葬したと伝える塚が,東山区三条通白川橋下るに所在している。一方,胴はここに埋められたと伝えられる。この石標は,この地に明智光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられることを示している。

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【明智光秀首塚】

「胴」の次に

「首」を追った。

地下鉄「東山駅」から

信号を渡れば「白川」がある。

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「白川」を下れば

「知恩院」の「古門」に至る道だ。

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川面には

燕が飛び交い

柳の緑が美しい

風情がある場所だ。

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「白川」の

左岸道を進むと

饅頭屋(餅寅)横に

東梅宮 明智光秀墳』

と彫られた石柱が建っている。

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路地を10mほど進むと

路地の一角に

「明智光秀首塚」がある。

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路地の片隅に

ひっそりと祠が建ち

祠には「光秀公」とある。

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小栗栖の「明智藪」から

「光秀」の首を持った家来が

「知恩院」の近くまできたが

夜が明けたため「知恩院」北端の

「粟田口」付近に首を埋めたと伝えられている。

その上に塚が築かれ

塚に建てられた「五重の石塔」が

のちに現在地に移されたという。

現在は「五重の石塔」が

「明智光秀首塚」として知られている。

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祠に掲示されていた写真には

”江戸時代の写真”とあるが

「五重の石塔」の右隣に

「供養碑」が映っているので

明治三十六年以降の写真だろう。

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祠の前に建つ

「五重の石塔」が

「明智光秀首塚」だ。

狭い場所に

押し込んだように建つ

「首塚」が哀れに感じた。

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「供養碑」には

「光秀」の戒名

「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれ

裏面には

明治三十六年四月   市川團蔵 建之 とある。

歌舞伎役者の七代目市川團蔵は

「明智光秀」を演じたので

供養のため奉納したものだろう。

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【明智光秀の塚】
天正一〇年(一五八二年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。

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さて、

「明智藪」から

光秀の「首」と「胴」を追ってきたが

その「首」と「胴」は

再び「本能寺」に戻ることになる。

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【本能寺跡】

現在の「本能寺」は

市役所近くの「寺町通」にあるが

当時の「本能寺」は

「蛸薬師通」「油小路通」附近にあった。

地下鉄「二条城前駅」から

15分ほど南進すると

「本能特別養護老人ホーム」に

「本能寺跡」の碑がある。

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その北東角の「石碑」には

『此附近 本能寺跡』と記されている。

この「石碑」の前辺りは

現在は住宅地になっているが

かっては東西約100m、南北約200mの

広大な寺領を有する大寺院だったという。

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「明智藪」で討たれ

埋められた「首」と「胴」は掘り出され

「本能寺」に運ばれ「信長」の前に献じられたという。

「光秀の変」は

「本能寺」から始まり

「本能寺」で終えたのだ。

その後

「光秀」の遺骸は

「織田信孝」の命により

「首」と「胴」はつなぎ合わされ

「磔(はりつけ)」にされたという。

余りにも惨い処断だ。

父を殺された「信孝」の

怒り・恨み・憎しみが

そうさせたのだろう。

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【本能寺跡記】
 応永二十二年(一四一五)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(一四二九)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享五年(一四三三)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移轉再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文五年(一五三六)天文法乱によって焼失。天文十四年(一五四五)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移轉、壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正十年(一五八二)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正十七年(一五八九)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移轉を命ぜらる。一山の大衆声を放って号涙すと。因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「●」と書くのが慣わしである。
 大本山 本能寺

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連休に入り

観光客が多くなったが

マイナーな場所には観光客は来ない。

のんびりと散策を楽しめた。

 

 Photo : Lumix TX1

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コメント

「麒麟が来る」の影響で光秀の足跡を辿ろうと先週の6日に大阪からカブで「明智藪」「本能寺趾」と回ってきました。京都の地図が頼りだったので、「胴塚」は分からずじまいでした。事前の計画でこちらのブログを見ておけばと後悔しています。

投稿: Hiro | 2020年11月13日 (金) 23時50分

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