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「東洋醸造」のサイレン(遠い日の記憶)

伊豆半島北部の田方平野の

中心部に「伊豆の国市」がある。

その南端部の修善寺に接する地域に

かって大仁町があった。

大仁町は、田京、三福、吉田、大仁など

10地区からなる町で工場が多く

昔は工場の町と言われていた。

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                        (昭和30年頃の大仁町)

三福地区には

酒造会社「東洋醸造」があった。

「東洋醸造」は

町内外から多くの人達が勤める

町の経済の重要な存在だった。

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60年前(昭和30年代)

私は

夏休みを

三福の祖父母の家で

過ごすのが恒例だった。

当時「東洋醸造」では

夏の間はサマータイムで

朝(7時)昼(12時)夕(4時)に

掠れた音色のサイレンが鳴った。

 ※12時45分頃にも鳴ったような気がする。

まだ腕時計などは普及していない時代で

各家庭に柱時計が1台ある程度が普通だったので

三福の人達にとって東洋のサイレンが時計代わりだった。

 ※町の人達は皆、「東洋醸造」を「東洋」と略して呼んでいた。

祖母も東洋のサイレンを

時計代わりに利用していた。

朝寝坊だった私に

「東洋のサイレンが鳴るまでに朝ご飯を食べないと

遊びに出てはいけませんよ」と怒ったり。

遊びに出かける私に

「東洋のサイレンが鳴ったら帰っておいで」と言っていた。

いつしか私も

東洋のサイレンを

時間の目安にしていたのを覚えている。

遠い。遠い。

夏の日の思い出だ。

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                       昭和20年代の「東洋醸造」

今では

「東洋醸造は」「旭化成」と名前が変わり

石積みの工場も取り壊され

更地になってしまった。

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唯一路地脇にあった

お地蔵さんだけが

当時の面影を残している。

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【東洋醸造】
 大正9年、脇田酒店店主、脇田信吾が米を使わない酒造り
 を目指して東洋醸造を設立、合成酒「力正宗」を開発した。
 合成焼酎「紋章」は青年科学者をモデルにした横光利一の
 小説の題でもある。
 戦時中もアルコール事業は順調で、田京工場には
 伊豆箱根鉄道からの引込み線もあった。
 その後旭化成と合併、2008年に130年を越える酒造りの歴史
 を閉じた。
 
 

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コメント

ご無沙汰しております。やっちっちです。

東洋醸造の文面をみて更に、お盆と相成って今は亡き在りし日の父に思いを馳せる事が出来ました。

父は大学を卒業して「大戦にて徴兵されるが」すぐ東洋醸造「私も文面通り東洋と言っていました。」に就職し定年まで勤め上げました。

東洋と言えば父にとっては、母との出会いそして私が生まれ、私自身学び舎の里でも有り、遊び場であった 大仁小学校の向かいの企業なのですし、町にとってはお書きになった通り、やはりなくてはならない企業なのです。

父親が務めていたと言う事で、色々な思い出は有りますが、父の弁当を届ける時の事、特別な事でもないのですが何故か、ふとした時に思い出す事が時々あります。

それは父が夜勤時での事です。
当日職場に夜勤対応の食堂が有ったかは、定かではないのですが父が夜勤の時は、夕方時に母が弁当を作り、その弁当を自宅から職場へ届ける事は、当時小中学生であった私の勤めでした。

勿論、正面正門へ行き渡すことは出来ないので、当時父の部署は工場東側、熊野神社から小学校へ向うフェンス沿いに有たので、部署の前まで行き到着すると大声で父親フェンス越しに呼ぶのですが、工場なので機械も多く騒音中、建物の中まで声が届かず、かなり大声でおとーさんおとーさんと渡すまで連呼し叫び続けます。

しかし、さすが中学にもなると恥ずかしくて「道路を挟んで同級生の女の子が住んでいて、昨夜東洋に向かっておーさんと叫んでたやつがいた等と言われる始末」そんな時は、フェンス向うに職場の人が近くを通れば、直ぐに渡せるのにと思いつつ、遅い時間になると人気はますます無くなり、暗い中一時間以上もその場に居て、何回も一人困っていた事を思い出しました。

他人には何時も優しい父ですが、息子には意外と厳しい人だったそんな父も、弁当を届けた時など、チリ紙に駄菓子を包み汚れた手でフェンス沿いに、ご苦労さんありがとうと言って渡してくれる事も有るそんな父でした。

そんな父に定年後きいた話に、企業としての負の部分として語った事が有りました。

小さな町に上場企業である東洋が、今ほどエコや環境について企業責任としての大きな役割をもっていない時期、高度成長に伴い工場から工場排水を狩野川へ高度処理をしないまま流し、汚染させ「魚が死んだ等新聞にも記載された」事が有り、町県並び川を管理する国も含め企業責任を問う動きが有ったそうです。


よって企業として責任を果たせと各団体から圧力が掛かり、当時の社長が憤慨し、それなれば工場を灘に移転すると行政側へ、言い払ったそうです。

するとどうでしょう、今の時代と違い環境問題より、経済を優先する事を行政側も推進している時代なので、漁業組合・町長・県知事等も一転手の平を返し、この地へ留まる様逆に説得され、今に至った経緯があったと話していました。

やはり小さな町にこれだけの税金や雇用の問題を棚上げとして考えると、 行政側も強く出ることが当時では出来なかったんでしょうね。

そんな東洋ですが、文面のように旭化成に変わり父の口か最後にら寂しいなと一言呟く様に言っておりました。

この背景には長年勤め上げた地元の企業が潰れ、無くなる訳ではないが社名が変わると言う事の憂いなども有ったと思もわれる節も勿論有ますが、何より父にとって最後の社長、脇田社長は韮山高校「旧制韮山中学」の同級生なので、そんな気持ちも有ったのかも知れません。

思わず東洋醸造のサイレンを読み、ぺんを?「キーボード」取りコメントを乱文及び私事をこれと言った内容もなく、長文にて書き込んでしまいました。

お許しください。

猛暑厳しき折、お体等くれぐれもご自愛のほどお願い申し上げます。

尚、更新を何時も楽しみにしております。


投稿: | 2016年8月17日 (水) 16時18分

やっちっち様

何時もコメント有り難うございます。

晦日盆で三福へ行った時に思い出したことを書いてみました。

私も三福で生まれましたので、あの匂いは忘れられません。

私にとって「臭い」ではなく「匂い」でした。

懐かしいです。

三福の原風景を表現すると「三叉路」と「城山」と「東洋」。

それに「黄色い匂い」と「黄色い水」と「黄色い空」ではないでしょうか。

有り難うございました。

投稿: 小生 | 2016年8月18日 (木) 22時33分

やっちっち様、小生様、コメントを興味深く読ませていただきました。大仁小の卒業生のよぴです。

わたしにとっても、東洋の存在とその匂いは子供時代の思い出になくてはならないものです。

実は今年、78歳になろうとしていた父を亡くし、今は、残された母に会いに、足しげく大仁を訪ねる日々です。そして小生様のブログに掲載される大仁の風景の写真を見ると、以前よりはるかに強く、懐かしく、切なく、父のことが思われます。「人はみないつか死ぬ」などというあまりに当然のことが、まるで初めて知らされた驚きの真実のように胸に迫り、父が逝ってそろそろ半年が経つというのに、あきらめる気持ちになれません。

すみません、気持の赴くままに書き連ねました。これからも更新、楽しみにしています。

投稿: よぴ | 2016年10月 4日 (火) 07時20分

よぴ様
コメント有り難うございます。

私も故郷を遠く離れ、随分遠くへ来てしまったなと嘆いています。
地元に住んでいたらこんな郷愁は抱かなかったのではないでしょうか。

最近は「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」室生犀星の詩に熱いものがこみ上げてきます。

投稿: 小生 | 2016年10月10日 (月) 21時13分

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