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昭和11年の「寒天橋」(河津町)

天城山隧道を湯ヶ野方面へ下ると

橋長11m程のコンクリート橋「寒天橋」がある。

私の生まれるずっと前からあった橋で

昭和30年頃ここには「寒天」という名のバス停があった。

(現在は「寒天橋」という観光用バス停がある。)

 の日記→天城の「寒天」

「寒天橋」という名称は、川端康成の『伊豆の踊子』(1926年)や

松本清張の『天城越え』(1959年)にも登場しないことから

建設当時から「寒天橋」と名付けられていたのかは確証がなく

歌謡曲『天城越え』(石川さゆり)のヒット以降(1986年)

名付けられたものではないかと勝手に推測していたが

とうやら建設当時から名付けられていたようだ。

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先週の日曜日

川端康成原作の映画【有りがたうさん】(1936年)の

映像の中で「寒天橋」の銘板を見つけた。

一瞬の映像だったが明らかに「寒天橋」だ。

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よく見ると高欄の形状が現在と違う。

近年架け替えられた記録も見つからないので

高欄部分だけ改築し橋の幅員を拡張したのかも知れない。

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そもそも「寒天橋」という名称は1875年(明治8年)に

建設された近くの寒天製造工場に由来する名称で

明治~大正時の木橋時代の名称は不明だが

少なくとも現在の橋の完成した1931年(昭和6年)には

「寒天橋」と命名されていたことが確認できた。

 

  1875年(明治8年)  寒天製造工場開設

  1904年(明治37年) 天城山隧道開通

               木橋時代

  1931年(昭和6年)  寒天橋完成

  1936年(昭和11年) 映画【有りがたうさん】に登場

  1959年(昭和34年) 改築??

 

  映画【有りがたうさん】

   公開年月:1936年2月27日
   原 作  :川端康成
   配 給  :松竹
   監 督  :清水宏
   出 演  :上原謙

 旧天城隧道を訪ねてみた(少年の頃の記憶)

『寒天橋の謎』

 1.1959年(昭和34年) 旧橋改築??

 2.1959年(昭和34年) ルート変更による架け替え??

後日追記

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コメント

寒天の歴史を調べています。
天城山中に寒天工場があったのですね。
興味あります。

言い伝えなどご存知でしたら、教えてください。

投稿: 中村弘行 | 2015年7月21日 (火) 13時36分

中村弘行様
興味を持って頂きありがとうございます。

なぜ天城に寒天工場ができたか
江戸時代からの流通経路をもとに整理してみました。

1.「伊豆は原材料の天草産地だった」
 伊豆は江戸時代より、日本最大の天草産地の一つとして名を馳せていました。
 なかでも稲取産の天草が良質だと言われていました。現在でも稲取産は有名です。

2.「長野県諏訪地方は寒天製造が盛んだった」
 諏訪地方は冬は日中でも氷点下から5度程度、北アルプス等に囲まれた内陸部であるため、
 雪はそれほど降らず乾燥した気候で寒天製造に適していた。現在でも「伊那寒天」ブランドが有名です。

3.「運搬経路」
 稲取やその近傍で採取され乾燥された天草は、人肩や馬で陸路諏訪地方まで運ばれました。
 江戸時代は陸路は河津川沿いに遡り河津町梨本から下田街道に入り天城峠を越え三島を経て諏訪地方まで運ばれました。
 (下田地方からも運ばれたと考えられます)

4.「天城に寒天工場ができた理由」
 寒天作りに必要な条件が整っていた。
 (1)気象(冬の天城地区の気温は氷点下で比較的乾燥している)
 (2)原材料(乾燥天草を諏訪地方まで運ぶ経路だった)
 (3)水(乾燥天草を洗浄、大鍋で煮込むための良質な水)
 (4)燃料(大鍋で煮込むための薪が豊富だった)
 (5)施設(動力源の水車を動かす水が豊富だった)
 というように寒天作りに必要な条件が整っていたのでしょう。
  ただし、気温が氷点下になる期間は短かった(2~3ヶ月)と思います。

私の子供の頃
祖母(明治26年生れ)から聞いた話ですが
戦時中、小麦粉が欠乏し代用食品として
寒天で作った「寒天うどん」というのが食べられたそうです。
寒天は豊富に供給されたようです。

下記のブログも参考に一読下さい。
     ↓
  2012年6月2日の日記→天城の「寒天」
   

投稿: 小生 | 2015年7月21日 (火) 22時40分

小生様

ありがとうございました。
すみません。お尋ねしたいことがあります。

①「運搬経路」の件です。
テングサを長野に運搬する経路ですが、白浜や稲取→伊東→網代という東海岸沿いの陸経路というのはなかったのですか。
あるいは、船による運搬はどうだったのですか。

②寒天うどんの件です。
おばあ様が戦時中召し上がった寒天うどんはどこで作られたものなのですか。

すみません。教えていただけると幸いです。

投稿: 中村弘行 | 2015年7月22日 (水) 15時28分

中村弘行様

【陸路の話】
 ●陸路は下田街道しかなかった。
  意外かもしれませんが
   東海岸の国道135号線(熱海・伊東・下田)が開通したのは1953年(昭和28年)
   西海岸の県道17号線(沼津土肥線)が開通したのが1968年(昭和43年)
   (伊豆半島は海岸まで山が迫った地形でかなり難工事だったようです。)
  このように寒天工場があった明治~昭和初期までは下田街道しかなかったことになります。

 余談ですが
 1857年(安政4年)アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが
 下田の領事館から天城越えして江戸へ向かったという記録や
 学者「吉田松陰」が三島から天城越えして下田へ向かったという記録が残っています
 どちらも下田街道です。

【海路の話】
 ●長野へ運んだ天草は全て陸路だった。
  江戸東京方面は海路もあったようですが長野は全て陸路だったようです。
  
  ※ここからは私個人の想定です。
  まず、長野へ運搬するためには三島から甲州道へ入り甲府を経る必要があった。
  ここで海路を想定してみると次の3経路が考えられます。
  ①下田・稲取から海路で伊東港へ入りそこから陸路亀石峠(標高451m)を越え大仁から下田街道で三島へ入る。
  ②下田・稲取から海路で熱海港へ入りそこから陸路熱海峠(標高617m)を越え函南から三島へ入る。
  ③下田・稲取から海路で石廊崎を廻り西海岸沿いに沼津港へ入り陸路三島へ入る。

  ・①と②は陸路峠越えが必要(当時の峠道は人馬がやっと通れる道だった)
  ・③は波の高い危険な石廊崎を廻る必要があり距離が長くなる。
  ・①②③は何れも船積み費用、陸揚げ費用、船賃が必要。
  ・当時の人件費は安かった。
  以上から海路はコスト高となるので陸路となったということではないでしょうか。
   
【寒天うどんの話】
 ●各家庭で作られていたようです。
  私は話だけで食べたことはありませんので
  太いトコロテンのようなイメージしか浮かびませんが
  工夫してうどんのような食感にしていたのかもしれませんね。
  戦時中の貧しかった時代の産物です。

投稿: 小生 | 2015年7月22日 (水) 23時00分

小生様

お答え、ありがとうございました。

さらに質問です。
寒天工場の形跡というのはありますか。

投稿: 中村弘行 | 2015年7月23日 (木) 13時17分

中村弘行様

【寒天工場の痕跡】
 ●工場の痕跡は知りません。
  今では工場のあった場所を知っている人は居ないと思います。
  私は寒天橋からそう遠くない場所だとは思いますが
  寒天橋から上流へ約4㎞付近が水源ですからそれより奥ではないでしょう。
  それに、工場と言えば石積みの立派な建物をイメージしますが
  当時は不便な山中で年間3ヶ月位しか稼働しない工場ですから
  木造の簡素な作りだったと思います。
  礎石も付近の自然石を流用したのではないかと思いますので残っていたとしても
  礎石と自然石の見分けはできないでしょう。

投稿: 小生 | 2015年7月23日 (木) 22時26分

お答え、ありがとうございます。
今度歩いてみたいと思います。

寒天橋の下を流れる川の名前はご存じですか。

投稿: | 2015年7月24日 (金) 05時52分

中村弘行様

【川の名は】
 ●本谷川(ほんたにがわ)
 この辺りに本谷川と呼ぶ川はほかにもあるので
 河津本谷川と呼んだ方が分かり易いでしょう。
 寒天橋のすぐ下に、この川最初の滝で、二段になって
 落ちる高さ20mの二階滝(にかいだる)という滝があり
 さらに幾つかの滝を経て下流は河津川と名を変え伊豆東
 海岸の相模湾へ流れています。
  ※滝をこの地方では「たる」と呼びます。

投稿: 小生 | 2015年7月24日 (金) 20時40分

寒天橋の由来について、拝読させて頂きました。大変詳しく記述されており、納得できる解説です。
つきましては、本内容を生涯学習および図書館での展示資料に使用させて頂けないでしょうか。宜しくお願い致します。
なお、最近の新聞に、伊豆学研究会の方が由来を、寒天工場が有ったためと簡単に記述しています。
ネット上では、由来の8割ほどは寒天の材料の天草を信州まで運んだ道にあるからと解説しています。しかし、伊豆の人が名付けたので有れば、天草橋ではないかと疑問に思っていました。

投稿: 天草マニア | 2016年4月24日 (日) 16時53分

天草マニア様
ご評価頂きありがとうございます。
ご依頼の件(記事利用)は承知いたしました。

記事は下記を根拠に記述しています。
これ以外の運搬経路の比較などは裏付け資料は確認していませんのでご承知おき下さい。

【伊豆の祖母の話】
 ・天城に寒天工場があった。
 ・乾燥天草が諏訪まで運ばれていた。

【毎日新聞2012年08月12日】
「橋ものがたり」という連載記事
◇寒天橋◇
全長約11メートルのコンクリート橋。
現在の寒天橋は「伊豆の踊子」が発表された年から5年後の1931年に完成し、自動車も通行できるようになった。
橋の名前の由来は、1875年に建設された近くの寒天製造工場。

天草マニア様の疑問のとおり
ネット上では間違った解説が多いようです。
間違った由来を正すためにも有り難いご依頼に感謝しています。
有り難うございました。

投稿: 小生 | 2016年4月24日 (日) 22時06分

記載内容の利用許諾ありがとう御座います。
映画を見ましたが、コマ飛ばしで見たので、橋の場面は見落しました。天城トンネルの所で休憩している場面あたりを見直して、探してみます。
小生、最近伊豆に転居してきたので、まだ寒天橋も天城トンネルも行った事が有りません。近いうちに行って見たくなりました。
記憶も根拠も曖昧な俄知識で、勝手な推測も有りますので、以下の内容は参考にはならないと思いますが…
江戸と下田間を、東伊豆側の道(東浦路の下田街道は、天城越えの街道ほど整備されていないので幕府要人でも馬や籠を降りて、歩いて通過しなければならない所も有った)を通行した人物は、
吉田松陰と金子重輔、黒船を追って行く途中、大川(東伊豆町)で宿泊、早朝発って昼頃には下田に到着。密航に失敗し江戸に護送される時は天城越えのルート。
林大学、ペリーとの条約交渉後、東浦路を通行して江戸へ戻る。
川路としあきら、ロシアのプチャーチンと交渉のため、東浦路を通行して下田へ。この時、地震と津波により、ディアナ号は大破、修理のため戸田へ回航の途中に沈没。
天草の輸送ルートは、三島から富士市に抜け、富士川沿いの道(清水からの塩街道)を信州に、(牛)馬に積んで運んだ。
信州の寒天作りは江戸後期からで、本格的な生産は明治以降?
それまでは、沼津藩と紀州藩御用の商人による大阪、兵庫の主要寒天生産地への輸送は、船便を使用していた可能性があるかも(紀州藩と戸田村名主の結び付き)。その流れで、(西伊豆も含め)天草を信州へ大量に輸送するために、ある時には船便(駿河湾フェリーのルート)を利用していたかも?
寒天生産地と天草輸送手段の移り変わりの関係も興味あります。

投稿: 天草マニア | 2016年4月28日 (木) 06時55分

天草様
コメント拝見しました。
私は思いついた都度調べる程度であまり掘り下げてはいませんので
天草様の調査考察たいへん参考になりました。
有り難うございました。

天草・寒天のことについては
稲取や河津で聞き取りをすると何かまだ知られていないことが判明
するかも知れません。
一度でかけられては如何でしょうか。

伊豆には一般には殆ど知られていない旧名所旧跡などが沢山あります。
このブログにも幾つか取り上げていますが
そちらの方も是非訪ねてみて下さい。

投稿: 小生 | 2016年4月29日 (金) 18時21分

暖かい海で採れるテングサが、寒天に加工されるために寒い山村まで運ばれる、「テングサ の道」を解明できたらおもしろそうですね。
途中、甲府盆地までは富士川の舟運も使われたようで、甲府盆地南端の鰍沢にある湊の取扱品目を記した史料のなかにテングサ の名が見えます(『山梨県史』による)。

投稿: てる | 2019年11月20日 (水) 16時50分

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