北野天満宮の梅の実。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

散歩の途中

北野天満宮に寄ってみた。

「絵馬所」で

カップコーヒーを飲みながら

しばらく参拝者を眺めた。

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境内は一面新緑の景色だ。

「三光門」前の白梅も

枝が見えないほどの

青葉で覆われていた。

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青葉の下には

「梅の実」が大きく育っていた。

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「本殿」前の

「白玉砂利」の広場は

相変わらずの賑わいだ。

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「牛舎」には

大勢の外国人観光客が

盛んに写真を撮っていた。

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どうやら

大量の「絵馬」が

気になったようだ。

英文の「絵馬」の話が聞こえた。

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「牛舎」前の梅は

ほんのり色づいていた。

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境内には約1500本の梅の木があり

六月には約2㌧の実が収穫されるという。

収穫された実は

塩漬けにし梅雨明けに

土用干しされ正月の縁起物

「大福梅(おおふくうめ)」に使われる。

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「大福梅」は干した「梅の実」を

「ウラジロの葉」と一緒に

「奉書」に包んだもので

新年の祝膳で白湯に入れて飲み

「招福息災」を祈る縁起物だ。

想像しただけで生つばが出る。

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今年は早くも

笹飾りが出ていた。

皆の

願い事が叶うことを願う。

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土日は比較的

過ごしやすかった。

月曜から

また暑くなる予報だ。

どうにも寒暖差に

身体がついていかない。

「寒暖差疲労」というそうだ。

 

 Photo : Lumix TX1

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天智天皇陵に参拝。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

天智天皇陵へでかけた。

地下鉄「御陵駅」から

南東へ10分ほど歩くと

「三条通」に御陵の入り口がある。

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入口の橋から

御陵の門まで

アスファルトの参道が

300mほど続く。

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参道の両側には

民家が建ち並ぶが

緑に覆われた参道が

それを感じさせない。

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参道のアスファルトが

石畳に換わると

御陵の門に到達する。

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参道の両側から

門に覆い被さる

「モミジ」の新緑が美しかった。

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門から先が

御陵の森となる。

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門の脇には

「イノシシ注意」の

立て札があったが

森を見渡しても

痕跡はなかった。

最近彼方此方に出没するので

予防警告かもしれない。

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門からは

石畳の参道が

さらに200mほど続く。

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参道の先は

緑のトンネルだ。

覆う新緑が

陽に照らされ

石畳に緑が映し出されていた。

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緑のトンネルを抜けると

陵墓が見えてくる。

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玉砂利の

涼しげな木立の前に

陵墓がある。

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「上円下方」の御陵墓は

上円対辺長約46m

下方辺長約70m

高さ8mあるという。

御陵墓は全て

森に埋もれていた。

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【天智天皇 山科陵】

 (てんぢてんのう やましなのみささぎ)

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先ずは

ゆるりと参拝した。

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 代  数:第38代
 天皇名:天智天皇(てんぢてんのう)
 御  父:舒明天皇
 御  母:齊明天皇(女帝)
 御陵名:山科陵(やましなのみささぎ)
 陵  形:上円下方

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「天智天皇陵」は

考古学名「御廟野古墳」(ごびょうのこふん)

と呼ばれている。

調査によると

築造年は7世紀末~8世紀

つまりは古墳時代終末期の古墳で

形状の八角形が天下八方の支配者に

ふさわしいという道教の影響を受けた

正八角形の「八角墳」ということだ。

宮内庁により

第38代「天智天皇」の

陵墓だと治定されている。

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「天智天皇陵」は

京都にある最古の天皇陵となる。

「天智天皇」は

672年1月7日崩御されたが

「桓武天皇」によって

「平安京」に遷都されたのが

122年後の延暦十三年(794年)。

「天智天皇」が

「平安京」遷都前に

ここに葬られたということになる。

「天智天皇」には暗殺説もある。

歴史のミステリーだろう。

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今日は

風も涼しく

過ごしやすい日だった。

こんな日が続けば有り難い。

先週は

急に夏日が続き

体が対応できなかった。

困ったものだ。

 

 Photo : Lumix TX1

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粟田神社に参拝。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

粟田神社へでかけた。

地下鉄「東山駅」から

東へ10分ほど進むと

「三条通」に「粟田神社」がある。

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「粟田神社」(あわた じんじゃ)

 創  建 :貞観十八年(876)
 創建者 :不明
      一説には孝昭天皇の分かれである
      粟田氏が此の地を治めていた時に
      氏神として創建したとも云われている。
 御祭神 :素戔嗚尊(すさのおのみこと)
            大己貴命(おおなむちのみこと)

      旅行守護・厄除・病魔退散
       縁結び・安産・経営守護

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石畳の参道を進むと

「二ノ鳥居」の前を

旧東海道が横切る。

この辺りは

京都の七口(七つの出入口)の

一つである「粟田口」と呼ばれる場所で

京都を出入りする旅人は旅の安全を祈り

また道中の無事を感謝して参拝した。

何時しか「粟田神社」は

「旅立ち守護の神」として崇敬を集めてきた。.

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「二ノ鳥居」の扁額には

「感神院新宮」(かんじんいんしんぐう)とある。

これは旧社名の名残で

「八坂神社」と同じ「素盞鳴尊」

「大己貴命」を祭神とするところから

「感神院新宮」(粟田天王宮)と称されていた。

明治になり現在の「粟田神社」と改称された。

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「二ノ鳥居」から

「モミジ」に覆われた

参道の石段がつづく。

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石段両脇の

涼しげな場所に

「狛犬」が座っている。

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明治期建立の

「狛犬」の台座には

「五芒星」が刻まれていた。

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「石段」を

80mほど上ると

「社務所」前から「拝殿」に到着する。

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江戸時代の

絵図どおりの配置で

石段上の境内の中央に「拝殿」がある。

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高台にある境内からは

「平安神宮」の大鳥居が見える。

緑に囲まれた気持ちの良い境内だ。

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桧皮葺の「拝殿」は

元禄一六年(一七〇三)に建てれたものだ。

「拝殿」には

「御神刀」が飾られていた。

昨年秋参拝した時には

壁に掛けられていたが

下に降ろされたようだ。

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当神社が位置する粟田口近辺には

往古刀工が在住し屋号を「粟田口」

あるいは三条通に面したことより

「三条小鍛冶」とも号した。

平安~鎌倉期にかけては

「三条小鍛冶宗近」「粟田口藤四郎吉光」等の

名工を輩出している。

十月に行われる

粟田祭(あわたまつり)には

剣鉾巡行と神輿渡御が行われ

剣鉾は「祇園祭」の山鉾の原形といわれている。

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「拝殿」から奥に進むと

「モミジ」に覆われた

「本殿」がある。

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「本殿」は

正面に拝所を付設した

「幣殿」が接続する複合社殿である。

文化二年(一八〇五)六月に焼失後

文政六年(一八二三)に再建されたものだ。

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先ずは

鈴を鳴らし

「本殿」に参拝した。

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「拝所」脇には

多くの「絵馬」が掛けられている。

最近はどの神社仏閣でも

工夫を凝らした「絵馬」が増えた。

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当神社は

人気ゲーム「刀剣乱舞-ONLINE-」の

聖地だそうで

刀をモチーフにした「絵馬」や

手書きイラスト入りの「絵馬」が並んでいた。

参拝者のニーズに

答えるのも大変だなと思った。

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「境内」を見渡すと

一面「モミジ」に覆われている。

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何種類もの

「モミジ」が植えられ

新緑が美しい境内だ。

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「境内」には

七「末社」が祀られている。

「北向稲荷神社」

御創建年代は不詳。

御祭神は「雪丸稲荷」他三座。

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「雪丸稲荷」は

「三条小鍛冶宗近」(平安末期の名刀匠)が

「一条院」の勅命により剣を打つ際に

相槌を打ったお稲荷さんと云われている。

「宗近」は御百稲荷(昔はここを稲荷山といった)

に詣でて祈りその稲荷の神霊に

相槌を打って頂いて剣を打ち上げたそうだ。

打ち上げた剣の表には「小鍛冶宗近」

裏に「小狐」と銘を打ったと云われている。

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「鍛冶神社」は

参道石段下の「狛犬」から

少し入った場所にある。

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製鉄・鍛冶の神である.

天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と共に

「三条小鍛冶宗近」「粟田口藤四郎吉光」が

一緒に祀られている。

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「出世恵美須神社」

創建年代は不詳。

もとは蹴上の夷谷に奉祀されていた。

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源九郎義経が牛若丸の幼少時代に奥州下向の時

源家再興の祈願をした「恵美須神」であり

出世又は門出恵美須と称された。

御神像は「伝教大師」の作と云われ

釣り上げた鯛を前にもち

大きく口を開けた笑姿で

日本最古の寄木造りの

「恵美須神像」と云われている。

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「朝日天満宮」

菅原道真公を祀る

京洛二十五社の一社。

祠と竹林との

景色が美しいと思った。

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他の「末社」も

 ・大神宮
 ・多賀社
 ・吉兵衛神社
 ・太郎兵衛神社

一廻りし

参拝を終えた。

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【粟田神社】
 粟田神社は、旧粟田口村の産土神である。江戸時代までは、感神院新宮、あるいは牛頭天皇を祭ることから粟田天王社、または粟田八大王子者と呼ばれていたが、現在は素盞嗚尊ほかを祭神とする。社殿によると、貞観十八年(八七六)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉して勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(一一一三~一八)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応九年(一五〇〇)に吉田兼俱が再興したという。
 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化二年(一八〇五)六月に焼失後、文政六年(一八二三)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の前に桁行二間梁行三間で正面に拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。
拝所の彫刻装飾には時代的と特色が見られ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。
 拝殿は確実な資料を欠くものの元禄一六年(一七〇三)に建てれたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。
本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である。
  京都市指定有形文化財
  平成八年四月一日指定
  京都市

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さて

陽射しは強かったが

吹く風が涼しく

気持ちの良い一日だった。

来週は30℃に迫るという。

今年も

熱中症の季節がやってきた。

一年は早いものだ。

 

 Photo : Lumix TX1

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本能寺に参拝。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

本能寺へでかけた。

地下鉄「京都市役所前駅」から

「寺町通」のアーケード街に入ると

ビルに囲まれた空間に「本能寺」がある。

「寺町通」は人通りが多いので

写真を撮るにも苦労する。

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「本能寺」(ほんのうじ)

 山号:なし
 宗派:法華宗本門流
 寺格:大本山
 本尊:南無妙法蓮華経曼荼羅本尊
 創建:応永二十二年(1415)
 開山:日隆聖人(にちりゅうしょうにん)
中興年:天正十七年(1589)
 中興 :日衍聖人(にちえんしょうにん)

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「表門」をくぐり

石畳を80mほど進むと

涼しげな境内に「本堂」がある。

行事の為か

スロープが架けられていた。

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かって「本能寺」は

油小路蛸薬師一帯に広大な寺領をもつ大伽藍だったが

天正十年(1582)「明智光秀」による「本能寺の変」で

三十余りの宿坊を構えた大伽藍は焼失した。

当時の貫首「日衍聖人」は

同じ場所に再建しようとしたが

上棟式の当日「豊臣秀吉」より移転を命ぜられ

天正十七年(1589)現在の場所に再建されている。

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その後も

大火や戦災で焼失するが

その都度再建されている。

現在の本堂は

昭和三年(1928)に再建されたものだ。

入母屋造本瓦葺、総けやき造りで

創建当時の面影を残すという。

天正十年  (1582)本能寺の変により織田信長とともに炎上
天正二十年(1592)日衍聖人(第14代貫首)により移転再建
天明八年  (1788)天明大火で焼失
天保十一年(1840)日恩聖人(第77代貫首)再建
元治元年  (1864)蛤御門の変にて焼失
昭和三年  (1928)現在の本堂再建

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先ずは

「本堂」に上がりお参りした。

堂内の椅子に座り一休みしていると

流れるお経が心地よく

ついウトウトしてしまった。

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境内の南には

恵昇院・蓮承院・定性院・高俊院・本行院

源妙院・竜雲院の7塔頭が一列に並ぶ。

戦国の配置だろう。

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塔頭前の石畳を進むと

「本堂」背面に「信長公廊」がある。

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「本能寺」炎上後

「信長」の三男「信孝」は

「信長」らの遺骨収集をすすめ

「本能寺」を「信長」の墓所と定めた。

この「信長の墓」は

このとき「信孝」が建立したものだ。

「信長」の遺骨は発見できず

この「信長の墓」には遺骨の代わりに

「信長」所持の太刀が納められているという。

私がお参りする間にも

「信長」フアンが多数訪れていた。

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【信長公廟】
 信長が光秀の謀反により無念の自刃をとげたのは天正十年(一五八二)六月二日早朝のことだった。本能寺の変である。そのころの当寺は四条西洞院にあり四町四面の広大な寺域、周囲に堀と土塁、その内部に七堂伽藍や多くの子院や厩舎を備えるという、城郭構えになっていて、信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。この大伽藍が烏有に帰し、光秀の天下もわずか十数日で終ったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨収集の作業をすすめ、本能寺の変から一箇月後の七月三日早くも本能寺を父信長の墓所と定めた、この信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。此の御廟には武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている。
  當山識

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参拝を終え振り返ると

書かれている「能」の字は

今では使われていない字体に気付く。

「本能寺」は度重なって焼き討ちに遭っているため

ヒ(火)を嫌いこの字体に替えたものだそうだ。

この字体は「本能寺」のために造字されたわけではなく

当時は現在の「能」よりも広く使われていた字体で

「能」が一般に用いられるようになったのは

『康熙字典』(こうきじてん)が広まった

明治時代以後のことだそうだ。

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【本能寺】(ほんのうじ)
 法華宗本門流の大本山で、応永二十二年(一四一五)、日隆上人によって創建された。
 当初は本応寺と称していたが、永享五年(一四三三)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文十四年(一五四五)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
 本寺は、天正十年(一五八二)、織田信長が明智光秀によって襲撃され(本能寺の変)、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正十七年(一五八九)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和三年(一九二八)に再建されたものである。
 寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

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参拝のあとは

「寺町通」のアーケード街を

ぶらぶらして帰ることにした。

「寺町通」は

「紫明通」から「五条通」までの約5kmの通りだ。

「豊臣秀吉」の都市計画で

通りの東側に寺院(80ヶ寺)が

集められたことからこの名前になった。

「本能寺」もこの時この通りに移された。

寺を集めた目的は税の徴収の効率化と

京都の防衛であったという。

東の御土居に沿うように

寺を配置することで東から進入する軍勢の

戦意の低下をねらったと言われる。

急遽移転させられた寺院の負担が大変であったという。

現在「御池通」から「四条通」の

900mある「アーケード街」には

多くの店舗が軒を連ねる。

雨天時には

観光客が大挙流れ込み

ごった返す商店街だ。

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さて。

「信長」の墓が

「本能寺」の北の

「阿弥陀寺」にもある。

そのうち行ってみようと思う。

 

 Photo : Lumix TX1

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明智光秀。明智藪~胴塚~首塚~本能寺(跡)。2018 晩春(京都)

今日の散歩。

諸説あるが

京に残る史跡を元に

明智光秀の首を追ってみた。

「明智光秀」は

「本能寺の変」のあと

「山崎の合戦」で秀吉軍に敗れ

近臣十数名とともに暗夜に乗じて

「坂本城」をめざしたが山科の小栗栖で

「信長」の近臣「小栗栖館」の武士集団飯田一党の

襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。

その場所が今でも「明智藪」として伝わっている。

【明智藪】

地下鉄「醍醐駅」から

南西へ25分ほど歩くと

集落の外れに「明智藪」がある。

途中「山科川」の堤防道を歩くと

飛び交う燕の姿に夏の気配を感じた。

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「山科川」を渡り

小栗栖街道から

急峻な坂道を上ると

「本経寺」の前から

狭い道に分岐する。

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狭い道を進むと

民家の庭で行き止まりとなる。

庭か道か境界が不明確で躊躇するが

庭先を通り抜けると藪の入口に

「明智藪」の石碑がある。

石碑横には

「天正十年六月十三日光秀横死」と記され

「明智光秀」終焉の地を表している。

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石碑からさらに奥に進むと

「本経寺」裏の擁壁沿いの小道に出る。

「本経寺」には「明智光秀供養塔」があり

このあたりは寺領となっているそうだ。

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小道を進むと

竹藪に「明智藪」を示す標識がある。

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竹藪には

明確な場所は

特定されていなかったが

この辺りの藪だったのだろう。

天正十年六月十三日

襲撃をうけ最期と悟った「光秀」は

家臣「溝尾茂朝」に介錯させ

首を守護を表す「毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)」に

包んで「知恩院」に届けてくれと言い残したという。

竹の軋む音にもビクリとする

鬱蒼とした竹藪だ。

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明智藪(あけちやぶ)
近江坂本城主、明智光秀は一五八二年(天正十年)六月二日早朝中国地方へ出陣のため上洛していた織田信長を本能寺に襲撃して自刃させた(本能寺の変)。その後光秀は六月十二日山崎の合戦で秀吉軍に敗れ、近臣十数名とともに暗夜に乗じて坂本城をめざしたが、途中小栗栖の附近にさしかかったところを信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃によりあえない最后を遂げたといわれている。
この明智藪は、今日に至るまで、戦国武将明智光秀の終焉の地として傳えられており、現在は西側にある本経寺(日蓮本宗)の寺領となっている。
平成三年二月吉日

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【光秀光秀胴塚】

「首」が切り落とされた「胴」は

「明智藪」近くに埋葬されたという。

「明智藪」から

小栗栖街道を1.5km北に進むと

農園のコイン精米機脇に

「明智光秀胴塚」がある。

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石碑には

「明智光秀之塚」と記され

裏面には昭和四五年建とある。

「胴塚」は小栗栖に昔から存在していた。

長い年月の末に石碑は失われたが

昭和三九年に石塔が建てられた。

その後

周囲の開発に伴い

「胴塚」は現在地に移され

現在の石碑に改められたそうだ。

「光秀」に限らず

「首塚」は多々存在するが

「胴塚」は珍しいと思った。

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明智光秀胴塚(あけちみつひでどうづか)
 天正十年(一五八二)六月二日,明智光秀は,本能寺で織田信長を討ち取った(本能寺の変)。その後,中国地方から引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉らと十三日に山崎の合戦で敗れた。光秀は近江坂本に戻ろうとしたが,小栗栖で襲撃され,明智藪で自刃したという。その際,首は介錯をした溝尾茂朝(庄兵衛)によって隠されたというが,持ち去られたともいい,首を埋葬したと伝える塚が,東山区三条通白川橋下るに所在している。一方,胴はここに埋められたと伝えられる。この石標は,この地に明智光秀の遺体(胴体)が埋葬されたと伝えられることを示している。

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【明智光秀首塚】

「胴」の次に

「首」を追った。

地下鉄「東山駅」から

信号を渡れば「白川」がある。

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「白川」を下れば

「知恩院」の「古門」に至る道だ。

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川面には

燕が飛び交い

柳の緑が美しい

風情がある場所だ。

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「白川」の

左岸道を進むと

饅頭屋(餅寅)横に

東梅宮 明智光秀墳』

と彫られた石柱が建っている。

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路地を10mほど進むと

路地の一角に

「明智光秀首塚」がある。

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路地の片隅に

ひっそりと祠が建ち

祠には「光秀公」とある。

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小栗栖の「明智藪」から

「光秀」の首を持った家来が

「知恩院」の近くまできたが

夜が明けたため「知恩院」北端の

「粟田口」付近に首を埋めたと伝えられている。

その上に塚が築かれ

塚に建てられた「五重の石塔」が

のちに現在地に移されたという。

現在は「五重の石塔」が

「明智光秀首塚」として知られている。

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祠に掲示されていた写真には

”江戸時代の写真”とあるが

「五重の石塔」の右隣に

「供養碑」が映っているので

明治三十六年以降の写真だろう。

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祠の前に建つ

「五重の石塔」が

「明智光秀首塚」だ。

狭い場所に

押し込んだように建つ

「首塚」が哀れに感じた。

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「供養碑」には

「光秀」の戒名

「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれ

裏面には

明治三十六年四月   市川團蔵 建之 とある。

歌舞伎役者の七代目市川團蔵は

「明智光秀」を演じたので

供養のため奉納したものだろう。

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【明智光秀の塚】
天正一〇年(一五八二年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまできたが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられている。

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さて、

「明智藪」から

光秀の「首」と「胴」を追ってきたが

その「首」と「胴」は

再び「本能寺」に戻ることになる。

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【本能寺跡】

現在の「本能寺」は

市役所近くの「寺町通」にあるが

当時は「蛸薬師通」「油小路通」附近にあった。

地下鉄「二条城前駅」から

15分ほど南進すると「本能寺跡」がある。

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現在は

「本能特別養護老人ホーム」が建ち

その北東角の石碑には

『此附近 本能寺跡』と記されている。

かってはこの辺りに

東西約100m、南北約200mの

広大な寺領を有する大寺院だったという。

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「明智藪」で討たれ

埋められた「首」と「胴」は掘り出され

本能寺に運ばれ「信長」の前に献じられたという。

「光秀の変」は

「本能寺」から始まり

「本能寺」で終えたのだ。

その後

「光秀」の遺骸は

「織田信孝」の命により

「首」と「胴」はつなぎ合わされ

「磔(はりつけ)」にされたという。

余りにも惨い処断だ。

父を殺された「信孝」の

怒り・恨み・憎しみが

そうさせたのだろう。

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【本能寺跡記】
 応永二十二年(一四一五)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(一四二九)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享五年(一四三三)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移轉再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文五年(一五三六)天文法乱によって焼失。天文十四年(一五四五)第八世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移轉、壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正十年(一五八二)彼の「本能寺の変」によって織田信長とともに炎上、天正十七年(一五八九)この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移轉を命ぜらる。一山の大衆声を放って号涙すと。因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重なるを忌み、能の字を特に「●」と書くのが慣わしである。
 大本山 本能寺

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連休に入り

観光客が多くなったが

マイナーな場所には観光客は来ない。

のんびりと散策を楽しめた。

 

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沼津へ出かけた。2018 仲春

沼津へ出かけた。

暑くなりそうなので

薄着で出てきたが

早朝の新幹線ホームは

気温13度と少し肌寒かった。

三島で降車。

在来線に乗換え

沼津駅を出ると

吹く風も暖かかった。

菩提寺へ向かう途中の

「浅間神社」に参拝した。

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参拝を終え

隣の「乗運寺」の山門をくぐった。

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「本堂」前の梅は

葉が茂り梅の実が

大きく膨らんでいた。

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境内の

木々の

新緑が美しい。

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先ずは

「本堂」にお参りした。

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「境内」を見渡すと

「若山家墓(牧水)」前の

「空木」がすでに咲き始めていた。

「空木」は

「卯(う)の花」とも呼ばれ、

童謡『夏は来ぬ』で歌われるように

初夏の風物詩とされている。

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木陰に咲く

「カタクリ」の

紫の小花も美しかった。

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墓地へ廻ると

「サツキ」や「ツツジ」の

良い香りが漂っていた。

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当家の墓には

小さな草が芽吹き始めていた。

草取りをし

「香の花」と

「線香」を供え

墓参りを終えた。

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墓参りの後は

千本浜へ向かった。

浜へ向かう途中の

「長谷寺」前の信号機が

LEDタイプに取り替えられていた。

なんとなく

見づらいと思ったのは

私だけだろうか。

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千本浜公園では

何時ものベンチで一休み。

頭上では

「トビ」に追われた

「カラス」が騒がしかった。

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千本浜は

波もなく静かな海だった。

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防潮堤の

何時もの場所に座り

しばらく海を眺めた。

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海を眺めていると

大瀬崎から大型客船が

内浦湾へ入ってきた。

おそらく

湾内を巡航し

「沼津外港」へ

入港するのだろう。

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「防潮堤」下の砂地には

「浜昼顔」が咲いていた。

可憐な花が可愛いかった。

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「千本浜」で

海を眺めた後は

久しぶりに「沼津港」に寄ることにした。

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「水産開発センター」の

ガラスの外壁には

松林が映し出されていた。

富士山が見えれば良かったのだが

少し残念だった。

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「沼津港」は

一年振りだろう。

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岸壁を見ると

「定期船」の待合所が

取り壊され更地になっていた。

案内板によると

バスの駐車場になるという。

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少年の頃は

「定期船」の待合所や

「土産店」が立ち並び

大音量で音楽が流れていた。

上下船客で人が溢れ

活気があった場所だったが。。

眺めていると

せつなくなった。

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久しぶりに

「鰺の干物」で昼食を食べた。

やはり沼津の干物は旨かった。

他の干物は

塩辛くて私には合わない。

昼食後は

一休みし

狩野川経由で駅へ向かった。

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狩野川には

沢山の「鯉のぼり」が上げられていた。

「鯉のぼりフェスティバル」だそうだ。

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「御成橋」は

桁の「落橋(ズレ止め)防止工」の

工事がまだ行われていた。

夏前には終わるだろう。

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年々

沼津へ来る度

寂しさを感じる。

年のせいだろうか。

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さて。

帰りは

「ほさかの栗せん」を購入。

「床屋さん」の

予約があるので

2時の新幹線で帰途に就く。

 

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安井金毘羅宮に参拝。2018 仲春(京都)

今日の散歩。

安井金毘羅宮へでかけた。

地下鉄「東山駅」から

南へ20分ほど歩くと

「東大路通」に「安井金毘羅宮」がある。

 ※最寄り駅は京阪「祇園四条駅」

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「安井金比羅宮」(やすいこんぴらぐう)

 創  建 :元禄八年(1695)
 御祭神 :崇徳天皇(すいとくてんのう)
       大物主神(おおものぬしのかみ)
       源頼政(みなもとのよりまさ)

 御神徳:あらゆる悪い縁を切り、良縁を結ぶ
             海上安全、交通安全

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鳥居から

石畳の参道が150mほど続く。

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思いのほか

参道の緑が美しかった。

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参道の終わりの

「手水舎」を過ぎると

奥に「拝殿」と「本殿」が見えてくる。

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「拝殿」は

小ぢんまりとした

回廊式の「拝殿」だ。

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先ずは

「拝殿」で鈴を鳴らし

「本殿」に向かい参拝した。

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さて。

この神社は

「縁切り神社」とも呼ばれる

人気パワースポットとなっている。

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「拝殿」前の絵馬掛け所には

幾重にも「絵馬」が掛けられている。

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掛けられた「絵馬」を見ると

縁切りを願う相手の

住所名前が書いてあったり

おどろおどろしい感じがする。

なかには

可愛らしい「絵馬」もあり

ほっとする。

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境内には

「縁切り縁結び碑(いし)」と呼ばれる

高さ1.5m、幅3mの絵馬の形をした「碑」がある。

中央には

人がやっと潜れるほどの

小さな穴が開けられている。

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「碑」の表面には

切りたい縁・結びたい縁などの

願い事が書かれた「形代」と呼ばれる

「お札」が貼られ碑が見えないほどになっている。

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祈願の方法は

まず「本殿」に参拝し。

次に「形代」に

切りたい縁・結びたい縁などの

願い事を書き「形代」を持ったまま

願い事を念じながら「碑」の「表から裏へ」

穴をくぐりまず悪縁を切る。

次に「裏から表へ」くぐって良縁を結ぶ。

そして最後に「形代」を碑に貼る。

ということだ。

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私には

今のところ

必要ないので

祈願する人達を

遠巻きに眺めた。

しばらく眺めていたが

圧倒的に女性が多い。

男性は我慢強いということだろうか。

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 当宮の主祭神・崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されたという故事に習い江戸時代より断ちもの祈願のならわしが続けられ縁切り祈願が生まれました。

 旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を甦らせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。
これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。

『悪縁を切る
    縁切り
    縁結び
 (いし)
          奉製 石刻画家 山田光造

 上部から亀裂を伝って神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)それぞれ心に祈りを込めてくぐりぬけてください。くぐり抜けた後に、神札を石面に貼ってください。
当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行いお清めをつづけて参ります。
    文 前宮司 鳥居 博愛

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【安井金毘羅宮】(やすいこんぴらぐう)

 祭神として崇徳(すとく)天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。
 社伝によれば、保元の乱(一一五六)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(一二七五~一二七七)に大円法師が建立した光明院観勝寺(かんしょうじ)が当社の起こりといわれている。
その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄八年(一六九五)太秦(うずまさ)安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。
 本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢(そけん)等の作品も含まれている。
 また、境内にある「久志(くし)塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年九月の第四月曜日に櫛祭(くしまつり)が行われる。

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さて

朝は寒いが

暖かい日が数日続いた。

寒の戻りが無いことを願う。

 

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知恩院の新緑。2018 仲春(京都)

所用の帰り

「東大路通」から

「知恩院」を見ると

「三門」が「五色幕」や

「吹き流し」で飾られていた。

何の行事かと「案内板」を見ると

『吉水講詠唱奉納大会』と書かれていた。

 期間:4月14日(土)~15日(日)
 会場:法然上人御堂

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【吉水講詠唱】
 浄土宗が制定した、詠歌、和讃、舞を言う。

・詠歌は、ほとんど「法然上人」の御作。
 お念仏の教えを説かれ導かれた高僧のお歌を唱える。
・和讃は、浄土宗の年中行事等の意味をあきらかにし
 法要に参加するために作詞されたもの。
 お念仏を讃えた古い和讃からなる。
・お舞は、お歌の心を動作の上に表現し身体全体を通じ
 仏を賛美、供養する喜びを表す。

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せっかくだからと

お参りに寄ることにした。

石段を上がると

「三門」に掛けられた

「大紋幕」が風に煽られはためいていた。

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「三門」脇の「大提灯」は

風に揺れることもなく

重々しく感じた。

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「三門」周りは

すっかり「葉桜」だ。

瑞々しい緑色の季節となった。

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「納骨堂」の前も

新緑の景色だった。

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池の「モミジ」の

新緑が美しかった。

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手ぶらできたので線香を購入。

「納骨堂」へお参りをした。

「大鐘楼」辺りから聞こえる

「鶯」の鳴き声が清々しく感じた。

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平成大修理中の「御影堂」の

仮設大屋根の撤去作業は

50%ほど進んでいた。

仮設大屋根の撤去作業が終わっても

基礎コンクリートの撤去作業が始まる。

しばらくは騒がしい境内が続くだろう。

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帰りは

「黒門」から出ようと

途中の「中門」を出ると

「黒門」へ至る「黒門坂」の

「モミジ」の緑が美しかった。

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「黒門」を出ると

観光バスから降りてきた

法衣をまとった団体とすれ違った。

『吉水講詠唱奉納』に

参加するグループだろうか。

まだまだ私には

縁遠い行事だ。

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さて。

冬物を片付けてしまったが

朝はまだ小寒い。

毛糸のベストを

また出そうかと思った。

 

 Photo : Lumix TX1

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京都霊山護国神社に参拝。2018 仲春(京都)

今日の散歩。

京都霊山護国神社へでかけた。

地下鉄「東山駅」から

東南へ25分ほど進むと

「京都霊山豊国神社」がある。

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鳥居から

「維新の道」と呼ばれる

参道を上るがかなり急峻な参道だ。

勾配は10%近くあるだろう。

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「維新の道」を200m程上ると

「本殿」に到着する。

【京都霊山護国神社】
(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)

 創 建 :明治元年(1868)
 主祭神 :国事殉難者約7万3千柱

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「本殿」前には

掃き清められた

気持ちがいい境内が広がる。

当神社は幕末維新に殉じた志士と

大東亜戦に至る京都府出身の

英霊が奉祀されている。

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先ずは

「本殿」に参拝した。

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「本殿」前の境内には

大東亜戦争で亡くなった

各部隊の慰霊碑が並んでいた。

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「本殿」上の山には

幕末の動乱期に活躍した

「坂本龍馬」、「中岡慎太郎」、「桂小五郎」を始めとする

幕末勤王の志士の墓石、慰霊碑の他

従軍記念公園「昭和の杜」がある。

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石段を上り

「坂本龍馬」「中岡慎太郎」の

墓に向かった。

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石段を5分ほど上ると

石柵に囲まれた

「坂本龍馬」「中岡慎太郎」と

下僕「山田藤吉」の墓がある。

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墓地中央の

左に「坂本龍馬」

右に「中岡慎太郎」が並んでいる。

慶応三年(1867)十一月十五日夕刻(午後九時頃)

京都河原町の「近江屋」に宿泊中の

「坂本龍馬」「中岡慎太郎」「山田藤吉」は

刺客に襲われた。

「坂本龍馬」は闘死する。

翌十六日「山田藤吉」絶命。

十七日「中岡慎太郎」絶命。

十八日、「近江屋」において葬儀が行われ

同日。三人の遺骸がここに埋葬された。

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「坂本龍馬」。(享年三十五歳)

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「中岡慎太郎」。(享年三十歳)

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二人の左には

一緒に襲撃された

下僕「山田藤吉」の墓碑が並んでいた。

「山田藤吉」は元力士で四股名は雲井龍

「坂本龍馬」の用心棒を務めていたという。

「山田藤吉」。(享年十九歳)

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お墓の傍らには

「龍馬」「慎太郎」像が建ち

京都市内を見つめていた。

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【坂本龍馬 中岡慎太郎の最後】
 徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油町商近江屋新助方に転居した。坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。
 慶応三年(一八六七年)十一月十五日、午後六時ごろ 中岡慎太郎が訪問。この二、三時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。
 盟友・中岡慎太郎も全身にに刀傷を負い、二日後の十七日の夕方に息を引き取った。
 十八日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。阪本龍馬にまつわる逸話として、三十七年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の影が立ち現われて「微臣阪本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖阪本、皇国海軍を守護しておりますゆえ ご安心願いあげます。」と言い残すと消えたという。
 阪本龍馬。志士中の一級志士と云っても過言ではない。
墓所
 右   中岡 慎太郎
 左   坂本 龍馬
 左奥 下僕 藤吉

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「龍馬」「慎太郎」の墓参りの次は

「桂小五郎」の墓に向かった。

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「桂小五郎」の墓は

石段を10分ほど上った

墓地の最上部にある。

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簡素な

「龍馬」「慎太郎」の墓に比べ立派な墓だ。

墓碑には

「内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允之墓」

とある。

「桂小五郎」は

明治元年(1868)「木戸孝允」と改名し

明治政府で活躍したが

1877年5月26日京都にて病死(享年四十五歳)

此所に埋葬される。

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隣には

妻「木戸松子」(芸妓・幾松)の墓が

仲良く並んでいた。

明治十九年(1886)4月10日京都にて病死(享年四十四歳)

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【桂 小五郎・幾松 墓所】
維新三傑の一人、桂小五郎。
容姿端麗にして神道無念流の達人。吉田松陰の門下生で理性もあり流血に縁遠く、一生人を斬ったことがないと言われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。勤皇芸芸妓の第一人者 三本木の幾松とのロマンスは、文久元年の頃、桂小五郎・二十八才、幾松・十八才、相思相愛の仲となり、激動の時代の中で苦楽を共にし、そして結ばれた。
勤皇の志士と云われる志士たちは最後は大方悲劇に終わっているが、明治十年(一八七七年)五月二十六日に四十五才で病没するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、日のあたる道を歩んだ幸運児とも云える。
幾松とても同じで、威信の大業成るや正二位公爵・木戸考允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることが出来る。

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墓参りの後は

「坂本龍馬」「中岡慎太郎」墓近くにある

「休息所」で一休みした。

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「休息所」からは

京都市街が一望できる。

眼下には「八坂の塔」が見えた。

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【京都霊山護国神社】
(きょうとりょぜんごこくじんじゃ)
 当神社は幕末、維新に殉じた志士と、それ以降、大東亜戦に至る京都府出身の英霊七万三千十一柱を奉祀する。
 幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山に、それぞれの殉職者を祀ったのが当神社の起源で、明治元年(一八六八)五月に大政官布告をもって我国初の官祭招魂社(かんさいしょうこんしゃ)とすべきことが定められた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。
 明治十年(一八七八)には皇室より巨費が下賜されて神域が整備され、 全國招魂社のうち、最も崇敬を集めた。 更に、昭和四年(一九二九)六月には昭和天皇 御即位大礼の建物を下賜され、現社殿を整備し、昭和十四年(一九三九)に護国神社と改称して現在に及んでいる。
 霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)・平野国臣(くにおみ)・宮部鼎蔵(ていぞう)をはじめ蛤御門の変・天誅(てんちゅう)組の義挙等に加わった志士の墓三百余墓があり、一三五六柱が合祀されており、この地は明治維新を偲(しの)ぶ大霊城・史跡となっている。

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此所には

「龍馬」のほかに

頼三樹三郎、梅田雲浜、吉村寅太郎、平野国臣

久坂玄瑞、高杉晋作、宮部鼎蔵、田岡俊三郎ら

幕末勤王の志士が葬られている

近いうちに

また来たいと思った。

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今日は

寒の戻りで寒い日だった。

夏物の上着では

少し肌寒かった。

 

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知恩院の花むしろ。高瀬川の花いかだ。2018 仲春(京都)

今年の桜は早かった。

早く咲き

早く散ってしまった。

庭に積もった花びらを「花むしろ」

水辺に積もった花びらを「花いかだ」という。

散った後の桜も楽しみの一つだ。

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「知恩院」

玉砂利に敷かれた「花むしろ」

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「知恩院」

庭の「花むしろ」

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「知恩院」

石段の「花むしろ」

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近づいて見ると

淡いピンクが美しい。

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「知恩院」

石積み水路の「花むしろ」

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「高瀬川」

堰に浮かんだ「花いかだ」

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自然の織りなす

幾何学模様が美しかった。

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さて。

来年は

どんな桜が観られるのだろうか。

 

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