知恩院に参拝(冬紅葉)2017 初冬(京都)

今日の散歩。

知恩院へでかけた。

地下鉄「東山駅」から

「白川」沿いに10分ほど下り

「知恩院道」を5分ほど東進すると

「知恩院」の「三門」がある。

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「三門」(国宝)は

「徳川秀忠」の寄進により

元和七年(1621)建立された。

高さ24m、入母屋造、本瓦葺き

五間三戸の二重門で

門の上層内部には

釈迦如来像と十六羅漢像が安置され

天井には龍図が描かれている。

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「知恩院」は

浄土宗総本山の寺院で

当家の菩提寺の総本山だ。

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「知恩院」(ちおんいん)
 
 山号:華頂山(かちょうざん)

正式名:華頂山 知恩教院 大谷寺

 宗派:浄土宗総本山

 開基:法然(ほうねん)

 創建:承安五年(1175)

 本尊:法然上人像(本堂)

     阿弥陀如来(阿弥陀堂)

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「三門」には

観光バス駐車場に到着した

中国語や韓国語の大群が向かっていた。

またお決まりの

記念撮影に興じるのだろう。

騒がしさから逃れるように

通用門でもある

「黒門」へ向かった。

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「黒門」(桃山期)では

日本語と英語しか聞こえない。

ほっとする。

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「黒門」を入ると

まだ紅葉が残っていた。

風に舞う紅落に

物寂しさを感じた。

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石段を上ると

参道が赤い絨毯に染まっていた。

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「中門」の

見上げるモミジが

陽に照らされ美しかった。

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「法然上人御堂」前から

「御影堂(本堂)」へ到着した。

国宝「御影堂」は

現在工事中(平成大修理)で

仮設の鉄骨ドームで覆われていた。

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「御影堂」は

寛永十六年(1639)「徳川家光」によって建立。

宗祖法然の像を安置することから

御影堂(みえいどう)と呼ばれている。

仮設ドームの隙間から

真新しい屋根が見えた。

今日は

御参りが目的なので

「方丈」の拝観はまたの日にし

「納骨堂」へ向かった。

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「本堂」の東奥に「納骨堂」がある。

「納骨堂」の前は

美しい「モミジ」が植えられているので

紅葉の名所にもなっている。

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「紅葉」シーズン中は

人が多く御参りどころではないが

「冬紅葉」の今は静かだ。

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持参した

「仏花」と「線香」を供え

ご先祖の霊に御参りをした。

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お参りを終え

石段を下りると

「納骨堂」前の

池の「冬紅葉」が美しかった。

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御参りのあとは

墓地へ向かった。

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石段から見える

「方丈庭園」の紅葉が

まだ美しかった。

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石段を上りきると

「御廟」の門がある。

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門をくぐると

「御廟」の下に

「勢至堂」(せいしどう)がある。

「勢至堂」は

「法然上人」がご終焉を迎えられるまで

お念仏の教えを自ら広められた故地であり

知恩院発祥の地である。

「勢至堂」に御参りし

奥の墓地へ向かった。

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墓地には

歴代「門主」の墓が並んでいる。

奥へ進むと

「濡髪大明神」の前に

「千姫の墓」がある。

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「千姫」は

「徳川秀忠」の長女で

「豊臣秀頼」に嫁ぐが慶長二十年(1615)

大坂夏の陣で豊臣が敗れると大坂城から救出された。

その後千姫は、姫路城主「本多忠政」の嫡男「忠刻」と再婚するが

忠刻の死により江戸へ帰り天樹院と号した。

寛文六年(1666)死去。

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「千姫の墓」のうしろに

「濡髪大明神」(ぬれがみだいみょうじん)がある。

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「濡髪大明神」は

「知恩院」を火災から守る「濡髪童子」が祀られている。

「濡髪」という名前は

「御影堂」辺りに住んでいた狐が

童子に化けていたときに

髪が濡れていたことに由来するという。

「濡髪」が艶やかな女性の姿をイメージさせることから、

祇園町のきれいどころの信仰を集め

今日では縁結びの神様「濡髪さん」として親しまれている。

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ちょうどお勤めの時間で

後ろに並び御参りさせて頂いた。

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堂内には

現役の「舞妓さん」の

「奉納提灯」が並んでいた。

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墓地背後の

「冬紅葉」が美しかった。

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帰りは

「宝仏殿」裏の石段を上り

「大鐘楼」に寄った。

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「大鐘楼」は

延宝六年(1678)の建立で

「梵鐘」(重文)は寛永十三年(1636)の鋳造である。

この「大鐘楼」で除夜の鐘を突く映像は

年末のTV番組でたびたび流れている。

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高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70tの

「梵鐘」を支える「鐘楼」の

珍しい基礎構造に

しばらく見入った。

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「大鐘楼」周りには

まだ紅葉が残っていた。

日陰のモミジが

陽に照らされ美しかった。

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また正月に

お参りに来ることになるだろう。

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今日は

石段を上がったり降りたりで

歩く歩数が少なかった。

帰りは歩数を稼ぐため

「大鐘楼」から

「八坂神社」を通り抜け

「建仁寺」経由で

京阪「祇園四条駅」から帰宅した。

明日は

「花園天皇陵」に

参拝したいと思う。

 

 Photo : Lumix TX1

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三条天皇陵に参拝。2017 初冬(京都)

今日の散歩。

三条天皇陵へでかけた。

嵐電「北野白梅町駅」から

「西大路通」を25分ほど北上し

金閣寺の前を横切ると

高級住宅街の中に

御陵の入り口がある。

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10段の石段を上がると

白砂利の参道と兼ねた

一般拝所の前に御陵がある。

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【三條天皇 北山陵】

(さんじょうてんのう きたやまのみささぎ)

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狭隘な御陵地だが

円丘の御陵墓は

森に埋もれて見えなかった。

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先ずは

ゆるりと参拝した。

 代  数:第67代
 天皇名:三條天皇(さんじょうてんのう)
 御  父:冷泉天皇
 御  母:贈皇太后超子
 御陵名:北山陵(きたやまのみささぎ)
 陵  形:円丘

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御陵地は

左直上に「大文字山」

周りは高級住宅街だ。

「大文字山」の山麓斜面を盛土し

御陵地が造成されている。

かなり狭い御陵地だ。

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「三條天皇」は

藤原道長(みちなが)の陰謀により

退位されたと言われている。

長和三年(1014)「三条天皇」は眼病を患う。

仙丹の服用直後に視力を失ったといわれる。

道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫った。

更にこの年と翌年、内裏が相次いで焼失。

病状の悪化もあり同五年(1016)「三条天皇」は

皇后娍子の子敦明親王の立太子を条件に

道長の勧めに従い譲位し「後一条天皇」が即位した。

翌寛仁元年(1017)4月に出家し程なく42歳で崩御した。

譲位の際に詠んだとされる歌が小倉百人一首に採られている。

 心にも あらでうき世に ながらへば

     恋しかるべき 夜半の月かな

           三条院(三条天皇)

  ■ 現代語訳 ■
  
  心ならずも、

   このはかない現世で生きながらえていたならば、

    きっと恋しく思い出されるに違いない、

     この夜更けの月が。

「三条天皇」の寂しくてつらい気持ちが伝わってくる歌だ。

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次回は

先延ばしにしていた

「知恩院」に御参りしたいと思う。

 

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乗運寺の紅葉。2017 初冬(沼津)

墓参りにでかけた。

「益山寺」の紅葉の帰り

菩提寺「乗運寺」の墓参りにでかけた。

三島駅で

在来線に乗り換え

沼津駅を出ると

風がやや冷たかった。

途中「浅間神社」に参拝し

菩提寺

「乗運寺」に到着した。

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山門をくぐると

境内の木々は

紅葉が進んでいた。

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先ずは

本堂にお参りした。

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境内を見渡すと

本堂前の「躑躅」が

美しく紅葉していた。

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今まで

この時期は

墓参りに訪れることは

あまりなかったので

紅葉は気にしたことは無かった、

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こうして

ゆっくり眺めると

「乗運寺」の紅葉も

なかなか綺麗だと思った。

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墓地へ廻ると

当家の墓にも落ち葉が

はらはらと散っていた。

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墓参りの後は

「千本浜」で海を眺め

夕刻の新幹線で帰途に就く。

 

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益山寺「大銀杏」の黄葉と「大楓」の惨禍。2017 初冬(伊豆市)

益山寺へ出かけた。

先週まで

行楽シーズンで

混雑していた新幹線ホームは

師走に入ると幾分少なく感じた。

三島駅で降車。

大仁駅から

益山寺へ向かうと

途中の狩野川公園の銀杏は

落葉が始まり

園内は黄色い絨毯で覆われていた。

益山寺に到着。

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境内を見渡すと

「大楓」の紅葉が進んでいるように思えた。

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「大銀杏」を見上げると

既に落葉が進んでいた。

今年のピークは

28日だったようだ。

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黄色い絨毯は

観られなかったが

それでも

「大銀杏」の黄葉は美しい。

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ただ。

例年にない

楓の紅葉の進捗に

景色が違って見えた。

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例年。

「大銀杏」の落葉が進むと

「大楓」に陽があたるようになり

「大楓」の「紅葉」が始まるが。

2015年に

「大楓」の前に

「大楓」を覆っていた

楓の大木が切り倒され

常時陽があたるようになったので

「大銀杏」の落葉に関係なく

「大楓」の紅葉が進むようになった。

「木」一本で

周りのライフサイクルが変わるとは

自然のバランスは微妙な状態で

成り立っているものだと思った。

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さて。

九百歳の仙人「大楓」だが。

よく見ると

「大楓」の姿が変わっていた。

姿形の良い

西側の枝が。

無い。

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居合わせた

お寺の方に聞くと

10月の

台風21号による強風で

大枝が二本折れてしまったそうだ。

何ということだ。

薄暗い境内で

妖しいオーラを放つ

あの「大楓」が観られなくなってしまった。

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本堂の床下や

「大楓」の足元には

折れた大枝の残骸が残されていた。

残念だが

是非も無し。

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気を持ち直し

「大楓」を見上げると

東側の枝は紅葉が進んでいた。

もう見頃だろう。

例年より10日程早い。

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「紅葉」と「黄葉」の

コラボも美しいと思った。

それに

二度来る必要もなくなった。

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今年は残念な結果だったが

自然の力は侮れない。

何時か妖艶な姿を

取り戻すだろう。

自然の治癒力に期待しよう。

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【養伽山 益山寺】

 標高三百メートルの益山の上にある真言宗
 で、高野山の末寺である。空海の創建で、本
 尊の観世音菩薩はその自作であると伝えられ
 ている。寺には三島代官の寄進状や江川太郎
 左衛門の禁制文などが残っている。境内並び
 に参道には百体の観音の石仏があり、県内で
 も珍しい石仏群集地である。又幕末の剣客
 「直指一刀流居士」の墓及び県指定の大楓、
 市指定の大銀杏がある。

 大楓
 (昭和30年2月25日静岡県文化財指定)
 根回り:五.四六メートル
 目通り:四.〇五メートル
 樹齢 :八百六十位の県下最大の楓

 大銀杏
 目通り:五.三メートル
 樹高 :二十五.三メートル
 樹齢 :三百五十年~四百年

                 伊豆市教育委員会

2016年12月10日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2016(伊豆市

2015年12月19日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2015(伊豆市)

2015年11月28日の日記→益山寺「大銀杏」の黄葉2015(伊豆市)

2015年10月24日の日記→清秋。益山寺へ出かけた。(伊豆市)

2014年12月13日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2014(伊豆市)

2014年11月29日の日記→益山寺「大銀杏」の黄葉2014(伊豆市)

2014年10月12日の日記→仲秋の益山寺 2014(伊豆市)

2013年12月14日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2013(伊豆市)

2013年11月29日の日記→益山寺「大銀杏」の黄葉2013(伊豆市)

2012年12月15日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2012(伊豆市)

2012年11月30日の日記→益山寺「大銀杏」の黄葉2012(伊豆市)

2012年10月 6日の日記→初秋の益山寺(伊豆市)

2011年12月17日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2011(伊豆市)

2011年11月25日の日記→益山寺「大銀杏」の黄葉2011(伊豆市)

2010年12月17日の日記→益山寺「大楓」の紅葉2010(修善寺)

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今年の紅葉。2017 晩秋

今年も紅葉が

美しく色づく季節がきた。

私の周りでも

「紅葉狩」に出かける人も多い。

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今まで

「紅葉狩」には

お付き合い程度に

出かける程度だった。

今年ほど各所出かけたのは

長い人生今年が初めてだ。

これも歳をとった証拠だろう。

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風が冷たくなり

舞う落ち葉を眺めていると、

これから始まる冬の寒さを想像して

急に寂しくなったりする。

暖かい故郷(沼津)が恋しくなる。

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暖かい伊豆でも

「修善寺」付近の紅葉が

そろそろ見頃を迎えそうだ。

今年も「益山寺」の

「紅(黄)葉」にでかけたいと思う。

 

 Photo : Lumix TX1

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(旧)蹴上発電所を観覧。2017 晩秋(京都)

今日の散歩。

(旧)蹴上発電所へでかけた。

地下鉄「蹴上駅」から

5分ほど北進すると

蹴上交差点の「三条通」と

「仁王門通」に挟まれた窪地に

昭和11年に建設された(現)蹴上発電所がある。

(現)蹴上発電所の敷地の南端に

今は使用されていない「(旧)蹴上発電所」がある。

建屋は道路の高いコンクリート塀や

樹木に囲まれ姿を隠すように建っている。

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道路から覗くと

導水鉄管も蔓草に覆われていた。

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現在は公開されていないので

近くで見ることはできないが

外観はレンガ造りで

アーチ構造の梁が

大きな屋根を支えている。

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屋根には

モダンな風見鶏が

取り付けられていた。

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蹴上発電所は

第1期工事の第一疎水を利用し

「初代発電所」が明治24年運転を開始した。

その後の電気需要の増加により

「初代発電所」では対処できなくなり

第2期工事として第一疎水とは別に

新らしく第二疎水を増設し両疎水を合流させ

2倍になった水量で発電量を増加させるもので

第1期の「初代発電所」を取り壊し

「2代目発電所」が明治45年に完成した。

その「2代目発電所」が

この「(旧) 蹴上発電所」だ。

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レンガ造りの

壁面を覆った蔦の紅葉が

レトロな雰囲気を醸し出している。

美しい建造物だ。

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レンガ壁面の中央には

何故か「六芒星」が取り付けられている。

明治時代の京都市の市章なのか?

陰陽道の方位神の魔除けなのか?

他の意味があるのか?

道路のコンクリート塀が

必要以上に高いのは

これを隠すためなのだろうか。

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よく見ると

屋根の風見鶏にも

「六芒星」が刻まれている。

京都には謎が多いと思った。

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水力発電所事業発祥の地
【蹴上発電所のあゆみ】
 京都の誇りである琵琶湖疎水は、明治23(1890)年に5年の歳月をかけて完成しました。この琵琶湖疎水は、滋賀県大津市の琵琶湖取水地点から、京都市伏見区で一級河川濠川となる地点までの約20kmを流れています。疎水は、運河としても利用された「第一疎水」、第一疎水とほぼ同じ取水地点から全線トンネルを流れ、蹴上付近で合流する「第二疎水」及び、蹴上付近から分岐して北白川に至る「疎水分線」からなっています。
 明治2(1869)年、東京遷都が行われ千年間続いた都の座を譲ることになりました。以来、市民は意気消沈、景気は衰退とまさしく町中の灯が消えたような状態であったと言われています。
 このうな状況の中、明治14(1881)年、第3代京都府知事 北垣国道は、京都の復興と近代化推進のための大きな柱として琵琶湖疎水工事を計画しました。明治18(1885)年、疎水工事は着工されましたが、この工事を担当したのが、工部大学校を卒業したばかりの青年技師 田辺朔郎でした。田辺朔郎は工部大学校土木科在学中に、学術調査のため京都へ出張を命ぜられた時、たまたま京都で疎水工事事業が計画をされていることを知り、独自の立場から現地調査を行い、これを主題とした卒業論文「琵琶湖疎水計画」をまとめました。このことが北垣知事に認められ、直ちに京都に呼び寄せられ、世紀の一大工事をまかされることになりました。

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【第1期 蹴上発電所】
 蹴上発電所は明治23(1890)年1月に着工され、明治24(1891)年6月運転を開始しました。
 その後、順次発電設備が増強され、明治30(1897)年5月に第1期工事が完成しました。
 明治24年5月の運転開始時は120馬力のベルトン水車2基と80kwの直流発電機2基でしたが、第1期工事完成時には20基の水車と19基の発電機が据え付けられ、出力は1,760kwとなりました。

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【第2期 蹴上発電所】
第二疎水開発
 明治28(1895)年の平安建都1100年の記念大会、第4回国内勧業博覧会を開催する頃には、著しい電力需要の増加により、従来の第一疎水だけでは対処できなくなってきました。第2代京都市長 西郷菊次郎は、京都の三大事業を計画し、その中核に第二疎水建設を据えることとしました。この第二疎水は、第一疎水とは別に新水路をつくり、両疎水を合流させ発電用として使用するもので、明治41(1908)年10月に着工、明治45(1912)年3月に完成しました。
(京都三大事業)
 第二疎水開発(発電出力の増強)、水道事業、道路構築(電車)

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【第3期 蹴上発電所】
 明治45(1912)年5月に第2期蹴上発電所が竣工したのち、電気の利用が年々増加の途をたどる一方で、産業界でのエネルギー需要も電気に頼る状態となり、まさに電気万能の時代へと移行していきました。
 京都市においても、安価な水力発電による電力増大の必要性を痛感し、昭和7(1932)年より工事に着手、3年半の工事期間を費やし、発電所及び連携する発電所、送電線路を建設し、昭和11(1936)年1月に竣工しました(現在の蹴上発電所)。

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「石積・煉瓦積」の好きな私は

レンガ造りの構造物を眺めていると

時間の経つのを忘れる。

「六芒星」の件は

調べても判らないだろう

歴史の闇にそっと隠しておこう。

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今日は

曇り空だったが

思いのほか暖かい日だった。

来週も暖かい日があるようだ。

こんな時期は風邪をひく

気をつけたいと思う。

 

 Photo : Lumix TX1

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駒ケ瀧最勝院の紅葉。2017 晩秋(京都)

今日の散歩。

駒ケ瀧最勝院へでかけた。

地下鉄「蹴上駅」から

南禅寺境内の東端を目ざし

15分ほど進むと「駒ケ瀧最勝院」がある。

背後の「若王子山」の向こうは

もう滋賀県・琵琶湖だ。

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紅葉の参道を進むと

山門に到着する。

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「南禅寺」のうしろに

隠れるように建つ

こぢんまりとした静かな寺だ。

 「駒ケ瀧最勝院」(こまがたきさいしょういん)

 山号:(南禅寺塔頭)

 宗派:臨済宗南禅寺派

 開山:不詳

 創建:不詳

 本尊:駒道智大僧正

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本堂は

改修工事中で

御本尊はお留守だった。

本堂の扁額「駒大僧正」も取り外されていた。

賽銭箱と大鈴はあるので

鰐口を鳴らし御参りした。

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狭い境内だが

姿形の良い楓が

多数植えられている。

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背後の山の緑を計算して

庭造りされたものだろう。

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緑との

コントラストが美しい。

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参拝を終え振り返ると

山門から望む

参道の彩りも美しかった。

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参道の楓は

寺に入るときより

出るときの方が美しい。

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参道が雨に濡れれば

紅葉が飛石に写り

さぞ美しいことだろう。

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そよぐ風と

小鳥の声が

心地良かった

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【當寺の由来】駒ヶ瀧本堂最勝院
此処より奥駒ヶ滝最勝院一帯の山峡は古く鎌倉時代より「神仙佳境」と呼ばれ、最勝院駒道智大僧正の霊地として広く世間に知られています。駒道智大僧正は、今を距る七百数十年前摂政関白九条道家の子に生れ、幼なくして比叡山に登り仏道修行の道に入られ、天台密教の深奥を極めた人であります。後三井寺の長更(管長)となり、更に当時天台密教の寺であった禅林寺の住持に移られました。晩年世をいといこの駒ヶ滝最勝院の地に穏棲されましたが、文永三年三月三日ついに秘密の法力により白馬にまたがり生身を天空にかくされたと伝えられています。それ以来滝を駒ヶ滝(これより奥約二〇〇米)僧正を駒大僧正といい、又院号をとって僧正をまつる寺を最勝院と呼ぶことになりました。鎌倉時代末文永年間亀山天皇が此の下に離宮を建てられると僧正を土地の鎮守として篤くまつられ、更に離宮を革めて禅寺を創建して南禅寺の基を開かれると、僧正は護法神としてまつられました。爾来七百年南禅寺一山の崇敬はもとより、広く京都の人々の信仰の一中心となり、古来勝運の神として参詣者が跡を絶ちません。
当寺は即ち駒大僧正をまつった本堂であり、駒ヶ滝はその奥の院であります。明治の末年迄はこの下の南禅寺寺務所の地にあり最勝院般若殿と呼ばれていましたが、大正六年夢想国師の塔所上生院の故地である現在の地に移転したのであります。 

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今朝は

早く来たつもりだったが

下の「南禅寺」界隈は

既に観光客が多かった。

明日も

この辺りを

徘徊しようと思う。

 

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南禅寺水路閣の紅葉。2017 晩秋(京都)

今日の散歩。

南禅寺水路閣へでかけた。

地下鉄「蹴上駅」から

10分ほど進むと「南禅寺」境内に

「琵琶湖疎水」の「南禅寺水路閣」がある。

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「南禅寺水路閣」は

明治二十一年(1888)完成した

「琵琶湖疏水」の「水路橋」で

全長93.2m×幅4m×高9m

花崗岩基礎に立つ煉瓦造りアーチ橋だ。

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この「水路橋」は

南禅寺境内を通過するため

周辺の景観に配慮して

田辺朔郎」が設計、デザインした。

風格ある構造物で

静かな風景にとけこんでいる。

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アーチを透してみる紅葉が

煉瓦構造物とマッチして

格別な世界を表現している。

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格式高い和風の境内に

西洋風の「水路橋」が絡む光景には

独特な世界観が漂っていた。

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「水路橋」には

琵琶湖から流れ込み

「蹴上水門」で分岐した

「枝線水路」が流れている。

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水路上の側道を遡ると

「蹴上発電所」水圧鉄管の上を通り

「蹴上疎水公園」にある「田辺朔郎銅像」に到達する。

 蹴上インクラインを散策。2017 晩秋(京都)

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水路を下れば

「第五トンネル」に流れ込み

「北白川」に至っている。

この「水路橋」を

設計デザインした「田辺朔郎」は

当時まだ21歳だったという。

その年齢の頃の私は

まだ目標さえもっていなかった。

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【南禅寺水路閣】(なんぜんじすいろかく)
 疏水は、琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路である。滋賀県大津市で取水され、南禅寺横を通り京都市東山区蹴上迄の区間である。疏水の工事は1885年に始まり、1890年に竣工した。
 疏水の目的は大阪湾と琵琶湖間の通船や水車動力による紡績業,潅漑用水,防火用水などであった。ところが水力発電の有利性が注目されるようになり、1889年に蹴上に発電所が建設され,91年には送電を開始した。また水力発電の増強と水道用水確保のため,1908年に第2疎水の工事が、始まり、1912年に完成している。同時期に蹴上浄水場が建設され、現在は上水道の水源として利用されている。
 赤煉瓦のアーチを思わせる水道橋は、南禅寺の古めかしさになじんで、今では一種の美を湛えている。

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煉瓦は

経年変化により

数年かけて黒褐色へ変化し

最後は「灰褐色」へと変化するという。

「水路橋」の

「灰褐色」の煉瓦には

深い歴史が刻み込まれていた。

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「南禅寺」境内は

内外の観光客で溢れていた。

人の多い場所には行きたくないが

目線を替えれば空いた場所もある。

次回も

この辺りを

徘徊しようと思う。

 

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北野天満宮「もみじ苑」の紅葉。2017 晩秋(京都)

今日の散歩。

北野天満宮「もみじ苑」にでかけた。

JR「円町駅」から

「西大路通」を北上すると

途中の嵐電「北野白梅町駅」から

降りてきた人並みが「北野天満宮」へ向かっていた。

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「楼門」には

史跡御土居「もみじ苑」の案内が出ていた。

混雑するなら引き返そうと

「絵馬所」脇の「御土居」入口で聞いてみたが

まださほど混雑していないそうなどで入場した。

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【史跡豊太閤築造御土居】
天正十七年豊太閤皇居を造営し、ついで京洛の区域を定め、その境界、並 水防のため天正十九年諸侯に命じて京都の四囲に築造した大土堤の一部なり。

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境内西側の「史跡御土居」には

現在でもかつてからの自然林が残り

四季に応じ様々な美しさを感じることができる。

なかでも秋は

およそ300本の「紅葉」(モミジ)が

苑内を鮮やかに彩る。

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「もみじ苑」側から見る

「本殿」を取り囲む

紅葉が美しい。

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「赤」、「橙」、「黄」、「緑」の

グラデーションも美しい。

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苑内を流れる

「紙屋川」沿いは

見頃(6分)といったところだろうか。

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赤一色の紅葉より

「緑」とのコントラストが美しいと思う。

私には今頃が丁度良い。

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「竹林」前の

彩りも美しかった。

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色を楽しむもの

姿形を楽しむもの

色んな種類があるものだと思った。

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苑内を一廻りし

茶屋で一休みした。

紅葉を眺めながらの

「和菓子」が美味しかった。

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「紅葉見」を終え

「文子天満宮」に参拝しようと

「北門」へ向かうと

「本殿」後ろの

「銀杏」の大木の「黄葉」が美しかった。

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「紅葉」も良いが

「黄葉」も良いと思った。

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紅葉の季節に入り

何処も観光客で溢れている。

連休が明ければ

混雑も和らぐだろう。

 

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蹴上インクラインを散策。2017 晩秋(京都)

今日の散歩。

蹴上インクラインへでかけた。

地下鉄「蹴上駅」から

「三条通」を100mほど下ると

「南禅寺」や「永観堂」界隈へ至る

「蹴上トンネル」(通称:ねじりマンポ)がある。

このトンネルの上が

「蹴上インクライン」だ。

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「蹴上トンネル」の上に登ると

「琵琶湖疏水」の施設の一部

インクラインの複線軌道がある。

「琵琶湖疏水」は京都と大津間の

船の輸送を用途の一つとしていたが、

高低差の大きい場所は船が航行できないので

貨車(台車)に船を載せて上下させる

インクライン方式で運行していた。

明治二十四年(1891)から

昭和二十三年(1948)まで運用された。

現在は国の近代化産業遺産として整備されている。

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インクラインとは

「傾斜鉄道」の意味だが

平たく言えば

上の「蹴上船溜り」と

下の「南禅寺船溜り」の間の

延長640m、高低差36mを

貨車(台車)に船を乗せ

上下させるケーブルカーだ。

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建設から126年

運用停止から69年。

レールの錆と

朽ちた枕木が

その歴史を刻んでいる。

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下の「南禅寺船溜り」から

上の「蹴上船溜り」まで歩いてみたが

足場が悪く勾配15分の1(約7%)あるので

私の足で15分だった。

当時のインクラインは

巻き上げ機の速度から

10~15分だったようだから

私の歩行速度と同じだったようだ。

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上の「蹴上船溜り」に

当時の巻上機の滑車と

貨車(台車)がある。

貨車には復元された

「三十石船」が搭載されている。

「三十石船」とは和船の称で

米三〇石相当の積載能力で

約4..5トン積みに相当する船だ。

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貨車(台車)の鉄輪が

「まだまだ行けるぞ!」と

叫んでいるようだった。

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この「蹴上船溜まり」は

琵琶湖から到着した「三十石船」や

下から引き揚げられた「三十石船」が

順番を待つ場所だ。

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「船溜まり」横には

「水路トンネル」がある。

琵琶湖から来た「三十石船」や

下から引き揚げられた「三十石船」が

行き交ったトンネルだ。

トンネル面壁の

丸みのある石積みが

美しく思った。

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【インクライン】(傾斜鉄道)
大津から京都を結ぶ東海道の難所であった逢坂山や日ノ岡の峠道は、旅人や貨物運搬にとって悩みの種で琵琶湖から水を引き、その水路を利用して舟運を興すとともに、田畑を潤すことが古くは平清盛、豊臣秀吉の時代からの願望として伝承されてきました。明治2年(1869)の東京遷都以降、衰退する京都経済の復興策として京都府三代目知事北垣国道、青年技師田邊朔郎、測量技師嶋田道生ら技術陣・行政関係者、上・下京連合区会、市民の力で明治18年(1885)8月、水力動力、舟運、かんがい、精米水車などの多目的な効用をはかるため、疎水開削工事に着手しました。
インクラインは、蹴上船溜(ダム)や南禅寺船溜に到着した舟から乗り降りすることなく、この坂を船ごと台車に乗せて昇降させる目的で建設されました。当初、蹴上から分水した水力動力(20馬力、15KW)によって水車場内のウインチ(巻上機)と水中の滑車を回転、ワイヤロープでつないだ軌道上の台車を上下する構造を考えていました。その後、明治21年(1888)、田邊技師、高木文平調査委員が訪米し、アスペン銀鉱山の水力発電を視察した結果、インクライン動力源を水車動力から電力使用に設計変更され、事業用としては我が国発の蹴上発電所を建設することになりました。この電力が世界最長のインクラインに35馬力(25KW)、時計会社に1馬力(0.75KW)など産業用、電灯用として活用されました。
明治27年(1894)には伏見区掘詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客約13万人を記録しました。しかしながら、時代の流れで大正4年(1915)には、京津電車、京阪電車が開通旅客数が3万人大に激減したのに加え、国鉄(JR)の方でも東山トンネルが開通して大正10年に現在の山科駅が開設されたため、京津間の足としての疎水の機能は実質的に失われることとなりました。一方、貨物の輸送量は、大正14年(1925)には、史上最高の22万3千トン、1日約150隻を記録しました。やがて、陸送化がどんどん進み昭和26年(1951)9月、砂を積んだ30石船が最後に下り疎水舟運60年の任務を終えました。
こうして、琵琶湖疎水、インクラインは文明開化以降における画期的な京都再生の役割を果たしました。
平成8年(1996)6月には、国の史跡指定を受け、今日の京都を築いた遺産として後世に長く伝えるため形態保存しています。

                概  要
 着  工  :明治20年(1887)5月  
 竣  工  :明治23年(1890)1月  
 運転開始  :明治24年(1891)11月(蹴上発電所営業運転開始)
 幅   約 :22m
 勾  配  :15分ノ1  
 所要時間  :10~15分
 電 動 機  :直流440V、70A
 ドラム工場:南禅寺船溜北側

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「蹴上インクライン」横にある

「蹴上疏水公園」には

「琵琶湖疏水」建設に携わった

「田邊朔郎」技師の

記念碑と銅像がある。

「田邊朔郎」は

「沼津兵学校付属小学校」に

明治2年から明治4年まで

在籍した経歴のある技術者だ。

沼津出身の私には

身近な存在だと思った。

【田辺 朔郎】(たなべ さくろう、
1861年12月2日(文久元年11月1日) - 1944年(昭和19年)9月5日)
日本の土木技術者・工学者。琵琶湖疏水や日本初の水力発電所の建設、関門海底トンネルの提言を行なうなど、日本の近代土木工学の礎を築いた。北海道官設鉄道敷設部長として北海道の幹線鉄道開発に着手し、狩勝峠の名づけを行った。

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今日は

風が冷たく寒い日だった。

寒がりの私は身に堪えた。

次回から服装を

考えなければいけないと思った。

次回は

「琵琶湖疎水」が流れる

「水路閣」へ行こうと思う。

 

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